これはオリエントで働く料理人の端くれが
「家でいかに手早く納得のゆく昼飯を作るか」に 挑戦した
他人にとってはどうでもいい記録である。
オリエントの労働時間は基本十二時間で、内休憩時間は二時間である。
せめて一時間は本を読むか寝るかしたい。
家までの移動距離は往復十五分。 昼飯にかけられる時間は四十五分。
したがって作る時間はわずか オンリー十五分クッキングタイムである。
*間違えだらけの麻婆豆腐*結構悪くないインスタント雲丹のみそ汁
*キノコのサラダ*ご飯
誤解をしないでほしいのだが、料理とは間違えだらけの出来損ないみたいなものである。
設定ひとつ間違えると動かなくなるコンピューターや、数字ひとつ間違えると全く違う答えをはじき出す算数に相反する。
それは正解が無いことにもよる。
なので作る量にもよるが料理は塩を1グラム間違えたところで痛くも痒くもない。
間違えて砂糖を1グラム入れてしまったって何の問題もない。
なぜなら人間の味覚が曖昧だからだ。
そして判断を下す脳も曖昧だからだ。
少しくらい自分の感覚と違うと思ってもそんなものか、と思ってしまう人間は物悲しくもあり愛らしくもある。
同じレシピでも作る人によって味が微妙に違うし(もちろん100パーセント同じ味になるように日々努力しても)、全く同じものを食べても人によっても感じ方は微妙に違う。
そこは人間、精密機械とは違うのである。
しかしその曖昧さに乗じてただ適当に作っているのでは0点である。
料理は適当に作るものではない。
真剣に取り組んだ結果、曖昧にしか作れないものなのだ。
そしてそれを達成するために必要なのは、多くのセオリーと多くの化学反応の見極めである。
それを知った上で作る人なりの何かを感じさせることが出来なければ料理とは言えない。
くどいようだがそれを達成出来たとしても料理の出来は残念ながらいつも曖昧なのだ。
異常な完璧主義者には到底出来ない一種の芸術なのである。
だから僕は料理が好きだ。
曖昧さの中に通す一筋の光はただ一辺倒の正解を求める数式とは違う難しさがある。
数値が羅列したレシピの、制約の海で泳ぐのだ。
遠く先の完成された島へ向かって、泳ぐのだ。
傍観者はその姿を美しいと感じるか、
ワイルドと感じるか、
早く着くのか、遅く着くのか、
手に汗を握りながらただ祈る。
どうか島にたどり着いてくれと。
島は曖昧に完成した島だ。
たどり着きさえすれば曖昧な何かを手に入れられるだろう。
それが人に食べさせる料理である。
ところで昨夜の残りの麻婆豆腐であるのだが、材料が無いのにどうしても食べたくなり冷蔵庫のあり合わせで作った間違えだらけの麻婆豆腐である。
食べるのは僕と妻だけなので曖昧さに拍車がかかる。
まず牛肉が合挽きに、長ネギが玉ねぎに、豆板醤がヤンニンに、味噌が赤味噌オンリーに変わった。かなりの間違えであるが、かなり許せる範囲でもある。
この曖昧さの振り幅は対価に比例する。
よって対価ゼロである家庭料理とは、何者かわからなくとも美味しく安全で幸せであればいいのである。
その方式を利用すれば今夜のおかずを作りにあたり、数式の海で溺れることはもう無い。
レッツおかず。
1、油を引き生姜、にんにく、ヤンニンを入れ、香りを出したら合挽き肉を入れパラパラに炒める。
2、鶏がらスープを注ぎ豆腐を入れる。食感を残す為にあえてここで粗みじん切りにした玉ねぎを入れる。
3、ひと煮立ちしたら味噌を入れ溶かし仕上げに香りの胡麻油と粉末の山椒を入れる。
4、片栗粉でとろみを付けて出来上がり。
5、お好みで追い山椒、追いラー油も有り。
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