2011年1月30日日曜日
町中のスーパーからレンコンが消える日
2011年1月25日火曜日
ランニングと食事2
2011年1月22日土曜日
2011年1月17日月曜日
ビストロ!
隠れ家的な一軒家のビストロでとても雰囲気もよくいい感じのお店でした。
2011年1月6日木曜日
音楽と料理を交えた、洒落た世界の終わりと始まり
明けましておめでとうございます!なんと今年、オリエントスパゲティは二十五周年を迎えることができました!これもお客様のお陰だとスタッフ一同感謝しております。今年は折にふれ二十五周年セール等をしていきたいと思いますので、ホームページやツイッターなどの情報をお見逃し無く!
さてここで二十五年に渡るオリエントの歴史を紐解いてみようかと思ったのですが、以前(2004年)自分のホームページに書いた文章を超えることが出来ないとの結論に至った為、その文章を載せることにしました。
今まで僕は基本的に、「店とそれ以外の事を意識的に融合させない」方針でやってきたのですが、時代も変わり、コミュニケーションの方法も変わり、歳もとり、、、そんなせいか若さ故のこだわりも薄れ、今後は諸々カオス的融合を目指していこうかと思っております。
こんな私ですがスタッフ共々日々勉強し、真剣に毎日営業しております。
お陰さまでどうにか五人が細々と食べていけるようにはなりました。
これを読んだからといって、どうか嫌いになったり、バッシングとかしないでくださいね(笑)基本、打たれ弱いので。
「音楽と料理を交えた、洒落た世界の終わりと始まり」
(<2004年筆>若干の加筆修正有り)
共働きの両親のおかげか、料理に目覚めたのは小学3年生の頃だった。
俗に言うカギッ子だった僕は夕方4時からの『太陽に吠えろ!』や『大都会』の再放送版を見ながら生協ラーメンを作って食べるのが日課だった。
うちの家はどちらかといえば普通より少し貧乏くらいの労働者階級に属していたが、海上損保に勤める母が、船便で軽く傷付いて商品にならないカニ缶やらキャビアを激安で買える為、家中に高級食材がゴロゴロしていた。
僕はそんな高級食材をふんだんに生協ラーメンにぶち込んでは、究極のラーメンの実験を繰り返していた。
子供ながらも『納得がいかない』と呟いては何度鍋をキッチンに投げ付けたことか、、、。
旨く作れない自分へのイラダチと、ものすごい形相でラーメンが入った鍋を投げ付ける僕を見て、幼い妹は恐くなり、よく泣いていたものだ。
そのたびにキャビアラーメンやカニラーメンは、へばりつく2日前のしなびたソーメンごとく、深く暗い下水口へ流れて行った。
いろいろな調味料と火を使い作りあげていく料理は僕にとっての科学の実験でもあり、芸術でもあったのだ。
そして2001年1月から僕は小さなパスタ屋のオーナーになった。
それまで7年間働いていたバイト先の店をもらったのだ。
しかもただで。
条件は「店の名前を残すこと」のみだった。
(僕もこの老舗のパスタ屋の名前を変えることは、言われなくてもしなかっただろうが)
しかし今だから言うが当時僕はもう店をやめようと考えていたのだ。
それはなぜか?
2000年秋にNON-POLY(自分の音楽ユニット)の相方の結婚パーティーが新宿LOFTで行われたのだが、僕はオリエントの才能溢れる若手とたった3人で300人分の料理を作った。(四畳半ほどの厨房で!)
発注から仕込み、調理までこの時かなり大変だったがパーティーは大成功し、もうオレはアマチュアNO,1だと思ったのだ。
そしてここまで出来りゃもういいだろう、もう一生美味しい家庭料理レベルなら作れるだろう、バイトも全然違うことをやってみようかと、思い始めていた。
変化の時期だった。
その矢先にこの話があった。
まず考えたのが音楽との両立だった。
しかしその頃音楽業界の友人達が次々と店(洋服屋だったりBARだったり)を立ち上げ、そんな風が吹いていたせいもある。
友人達に相談しても誰一人やめろというヤツはいなかった。
本来ミュージシャンなんか楽観的なのだ。
そう、相談した僕が間違っていた。
おかしなことに唯一反対したのが母親だった。
母は僕が音楽生活に息詰まり1年間くらいあまりうまく生きられなかった頃を知っていたからだ。
「店を持つと言うことはより責任が生まれ音楽を作る時間が取れなくなり、それでもアンタは大丈夫なのか?」と。
「そんなムリしてまた息詰まってしまうのではないか?」と心配したのである。
確かにそうだ。
僕が悩んだところもそれに尽きる。
「まぁでもやってみるよ」と僕は言った。
宇宙の広さと歴史を考えれば何でも出来る。
息詰まった1年間に得た唯一のこと。
あまり考えない。
考えるのは音楽なり料理なり何か作るときだけで充分だ。
それさえ間違えなく真剣にやってたらどうにかなるだろう、そんなひどい仕打ちは受けないだろうと考えた。
と、軽く悩んだ末、自称アマチュアNO,1を経て、今度はプロの底辺からのスタートとなった。
仕事内容はバイト時代と変わらないし、やはりここまで料理にこだわって生きてきたのだからこれもなんかの縁なのだろう。
まぁ常識的に考えてもこんなにいい話はない。
どうせバイトをしてても何も変わんなかっただろうし。
その店はオリエントスパゲティという名前で、東京中野のブロードウェイ先の商店街にある。
しかしただでもらったはいいが金は無い。
しょうがないので売り上げで少しずつ内装を替えていき、メニューも良い物は残し、悪い物は捨て、同じ物でも材料のグレードを上げ、味のレベルの底上げを図った。
この不景気の中、値段を下げるのは簡単だがそれはしたくなかった。(そうでなくても安いのに)
だったら違うところでの(味や内装)のレベルアップをしてお客さんに来てもらいたかったのだ。
そして3年(2004年頃)経ち、とりあえずやりたい感じのことは完成しつつある。
あとはもっとお客さんに来てもらえればといったところだ。
バイト時代には景気のことなんか全く自分には関係なくノホホンと生きていたが、それだけは店をもらい経営者の立場になってみるとヒシヒシと感じる。
この場で前社長に生意気いってゴメンナサイ、と謝りたい、、、。トホホ。(ちなみに前社長もプロではないが、音楽を深く愛しウェストコースト系のバンドをやっていた方である)
そして僕は今も家のキッチンに立ち料理をつくる。
自分のために作る料理はどうしてこんなに楽しいのだろう。
(人のために作る料理がつらいと言ってるわけではないのでお間違えなく)
自分のために作る料理は、自分の作る音楽と似ている。
誰にも邪魔されずお酒でも飲みながら時間をかけて作り上げていく。
それをとても静かな食卓に並べ眺めてみる。
よく見ると僕の口はゆがんでいる。
笑っているのだ。
なぜなのかは、わからない。
が、笑っているのだ。
そして僕は音楽を作る。
時間も忘れ言葉を書き、口ずさんだメロディが形を成し、いろいろな楽器で色をつけていく。
そんな作業を十何年もあきもせず続けて来れたのは、ひとつ曲が出来るたびに僕は自分の汚れた薄皮がめくられたような感覚に陥り、何物にも代えられない感覚になるからだ。
自分がまたひとつ高まった気すらする。
そしてその感覚は日常にやられそうになった時の僕を助けてくれる。
僕は映画が総合芸術の最高峰だと思っているが、僕個人を安らかに動かしてくれる最小限の物は言葉とメロディであり、それさえあれば充分なのだ。
こんな風に音楽と料理はいつも僕のそばに立ち
僕もそれをあたりまえのように受け入れていた。
きっと、これからもそうなのだろう。
最後に、、、。
そしてここは小さなレストランと、とても個人的な音楽レーベルから始まります。
そのふたつがどんな関係かと聞かれても困ります。
ひとつだけ言えるのは、料理も音楽も作る行程と作る気持ちは同じと言うことです。
ひとつだけ違うのは料理は誰かの為に作り、音楽は自分の為に作ります。
とても簡単な言葉であらわすならば、料理は日常で、音楽は非日常なのです。
そんなことはムリだと誰かが言いました。
でもそうしないことにはいろいろなバランスが取れないのです。
そしたらこんな風になりました。
アーサーシートンとボーマン船長の複雑な関係よりは、はるかに単純な話なのです。
サトウヨシヤ